愛を乞う人

私の人生の失敗は。。。
愛を乞う人であったからが大きいのではないかと思う。
愛って、本来は子供の時に無条件に親から注がれるものだけど、私はそうではなかった。
私は条件付き、すなわち親にとって都合の良いこと、誉められることをした時だけしか私の存在価値を認めてもらえることはないに等しかった。
それだけ特に私の実母は心が歪んでいた人だったからだ。
それでも私は懸命に母の愛をもらう為に母の欲望を叶える為の人生を知らず知らずのうちに選択をして生きてきた。


しかし社会人になった時にそれが壊れた。
自由になるお金ができた時、私の中で何かが壊れた。
その対象が、ここで言うのも恥ずかしいが、過去記事には書いてあるけれど、お金を使う趣味に自分を没頭させたことである。
私は初めてそこで自由になれた、自分で選択した結果を味わうということを覚えた。
そして私はそこの世界で長いこと溺れ続けてきた。


私は途中で別の(少しは健全ではあったが)お金を使わされる趣味に傾倒した。
私はダブルでお金を使う趣味に没頭し続けたのだ。
愛なんて要らない、恋なんて要らない、正確には嘘だ、本当は欲していたけれど、趣味の世界を満喫することである程度は満たされていたつもりだった。
そんな時、両親の生活が破たんした。
私は趣味に溺れている訳に行かなくなった。
両親の救済に翻弄した。
できる限り頑張ったが、両親は心が死に、私も疲弊しまくった。


そんな中、私は転職をせざる得なくなった。
自分の誇りであった仕事から外されたのだ、簡単に言えばクビだ。
しかも大量のクビだった、私だけがクビになった訳じゃない、世の中の流れには逆らえなかったのだ。
だけど私はここでも心が死んだ。
それでも異業種で死に物狂いで働いた。
だがその会社はパワハラの巣窟で有名な所だった。
そんなことも知らず2年がむしゃらに働いた。
私は心身を壊し、人生の選択を妥協することが多くなった。
そんな中で人生の選択ごとがある際に、何か私は常にモヤモヤがあったような気がする。


そんな自分をごまかしながら生きていた時に出会ったのが自己愛性人格障害を患っていたであろう、一人の男性だった。
私は彼を心底愛した、彼もまた私を愛していてくれると信じたかった。
しかし幸せな思いはほんの始めだけ、自己愛の本性はすごい勢いで私に迫ってきた。
しかしもはや私は愛を乞う人となっていたので、愛を得る為に自分を殺してでも尽くして尽くして生きてきた。
そしてどんどん痛め付けられるようになり、もはや私の心は、魂は、殺されたに近かった。


私は日々どうやって生きていたのだろう?
よくぞあの地獄道を歩いて生きてきたもんだ。
今はそんな風に思う。
今こうしてムラゴンで愛ある人達と交流ができていることは、ある意味奇跡的な感覚である。
私は愛を乞わなくても愛を感じることができるようになっている。
そんな環境が今の私にはあるのだ。
今とてもそれをありがたいと思っている。


しかし私の心の葛藤は実はいまだに終わってはいない。
愛を乞わざる得なかったのはなぜか?
私が本記事で書いたことだけが原因なのか?
原因を全てわかり切ることなどできないだろうが、しかし自分の本音(核心部分)を知ることは私にはまだまだ必要なことのように思われる。
まだまだ私の自己愛批判記事は続くかもしれない、いや続くだろう。


私の今の状態は。。。確実に前進しているとは思っている。
しかしまだ何か自分の中でくすぶる感情との葛藤が捨て切れていない。
これだけは残念ながら認めざるを得ないのである。